皆さんこんばんは。
貝塚聖書教会では、第三週を「歓迎礼拝」として、新し方々や求道中の方々を招きやすいようなメッセージをするよう心がけています(牧師の力量不足で必ずしもそうなってない事もあるのですが・・・)。いわゆる伝道礼拝に近いんでしょうね。
そんな第三週の礼拝後は、学習意欲熱心な信徒さんのリードで、信徒学級「聖書よろず講座」が開かれています。テーマはその時々。政治を扱ったり、神学を扱ったり、福祉とキリスト教だったり・・・。進め方もいろいろで、レジュメが配布されたり、ビデオをみたり、ディベートをしたり。時に盛り上がりすぎて熱くなることもありますが、わいわい楽しく学びが続けられています。
今日は、メインテーマからは外れるのですが、話しの流れの中で、キリスト教の祈りについて、質問というか、そこから分かち合いが広がりました。「祈ることは難しいか」ということから話題が始まったのですが、「熱心に」「全身全霊で」祈ると聞かれるのかな、という素朴な疑問から、だったようです。
日本語でいう「祈り」には、聖書で示される祈りの姿の他にもいろんな要素が混在しているように思います。まじないや、強く念じること、精神を集中させること・・・こういうことも、日本語的には「祈り」の一種かな、と感じる事があるのですが、聖書はそういうものと祈りとを区別しているように思いますね。
聖書においては、まず祈る相手がはっきりしています。そしてその方がどんな方かもはっきりしています。自分が、誰に、どんな方に、祈っているのか、そこがぼんやりしている人にとっては、確かに「祈ることは難しい」のかもしれないな、と思いました。
そこいくと、日本語の「祈り」は、「願をかける」にも通じるようなところがあって、誰に祈っているか、ということよりも、自分がどれだけ一生懸命、集中して取り組んでいるか、何かこう、自分の思いの方にフォーカスがあるような気がするんですね。
聖書の示す祈りはそういうものではなく、神という方の存在を認め、その方のご人格、ご性質を認め、その方に「語りかける」というのが本来の姿であるように思うのです。ですから、祈る相手がはっきりしていると、祈ることはそんなに難しいことではないし、むしろごく身近な、しかも日常的な営みとして実感されるのではないかな、と思います。
語りかける、話をする、それが聖書の示す祈りであるとするなら、必ずしも「願をかける」とか「精神を集中させる」といった事を必要とはしませんし、願うことだけが祈りというわけでもないので、聞かれたか聞かれなかったか(つまり、望みがかなったかかなわなかったか)という事だけでもないのです。感謝したり、日々の出来事を申し上げたり、そこで自分がどう感じたかを伝えたり・・・それは、必ずしも願いを請う、という事に限らないですよね。
もっというなら、全知全能の神様は、私たちが祈る前から、私たちが何を祈ろうとしているのかを、実はもうすでにご存知でもあられる、という事でもあります。そういう意味においては、すべての祈りは、聞かれていますし、しかも私たちが実際に祈る前から聞かれている、ともいえるかも知れません。
でも、たとえば私たちの願いがかなわなかったときに、私たちの感覚として、「聞かれなかった」と思うかも知れませんね。ただ、これは、聞かれなかったというより、聞かれてはいるんだけれども、より良い導きを示すために神様はあえてその願いを退けられた、という事の方が正確でしょう。
親子の関係で譬えてみましょう。子どもは親にいろんな願いをします。いい願いもあれば、良くない願いもあります。親は、子どもの言う事を、聞かなかったのではないけれども、その子のためを思えば、その願いをかなえるわけにはいかない、と判断する事もあるでしょう。子どもからすれば、それは聞いてもらえなかった、と実感されるかも知れません。私たちと神様の関係も、ちょうどそのような感じではないでしょうか。
私たちの願いを、聞かれないのではない、いや、すべての願いは聞かれている、けれども、もっと大きな目的のために、神様は敢えてその願いを退けなさる事がある。その代表的な出来事として、なんと神ご自身、イエス様ご自身が、願った祈りを叶えられなかったという経験をされた方である、という事は、「祈りが聞かれなかった」と感じ、悲しみ、落ち込む事がある私たちに、大きな気付きと慰めを与えるのではないでしょうか。
イエス様は、十字架の苦しみの直前、父なる神に願いました。出来ることなら、この杯(苦しみの象徴)を取り去って下さい・・・しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころがなりますように・・・ゲツセマネで祈られたこの祈りは、結局、イエス様の願ったようには叶えられず、イエス様は十字架の苦しみと死を経験なさいました。しかし、その苦しみと死の後、復活と、永遠のいのちの素晴らしさと、神の栄光のうちに天に挙げられるという父なる神様からの取り扱いを受けられたのです。
私たちも、絶えず祈りたいと思います。祈る相手をしっかりと思いながら。願い事や望みだけでなく、感謝や讃美や語りかけもしながら。「祈りが聞かれなかった」ように感じる時も、実は自分には気づかないもっと大切な、もっと素晴らしい事のために、神様は敢えて願いを退けておられるのかも知れない、と心に留めながら。日々、十字架の主の愛を覚えながら。たゆまず祈りましょう・・・
2015年2月15日日曜日
2015年2月10日火曜日
キリスト教の御葬儀・納骨式
ハレルヤ、主の聖名が崇められますように。
2月に入って寒さが戻ったようで、昨日はここ大阪でも、一時的に粉雪も舞うような所がありました。皆さま、お変りなくお過ごしでしょうか・・・心身ともに、主よりの支えがありますように。
そんな中、昨日はある方の納骨式が執り行われました。教会から車で移動すること約30分。ご家族の方、教会からの方、併せて10名弱のメンバーで教会墓地に向かいました。ともに讃美し、短く聖書の箇所を開き、ともに祈り、神様の栄光を拝しつつ永遠のいのちの希望をともに分かちあいました。
永遠のいのちを信じるキリスト教においては、死者の弔い、埋葬の時においても、何か不思議な明るさ、暖かさが感じられ、じんわり心慰められる思いがします。ともに讃美もいたしますから、日本的な感覚からすると、慣れていないと少し場違いなくらい、明るいなと感じられる事があるかも知れません。
もちろん、キリスト教が、死者を大切にしない不謹慎なけしからん風習をもっている、というわけではありませんね。そうではなく、むしろ永遠に生きておられる天地万物の創造者なる神様のもとに、故人の魂が委ねられ、そこで平安と憩いのうちに置かれているのだ、ということ、この地上では、肉体という限られた「土の器」の中で、喜びや幸いだけではない、苦しみや悲しみも経験して来たわけだけれど、今やそういったものがすべて取り去られた神の御国に移されているのだ、ということ、そして、故人の魂とともに、地上に残る私たちも、いっしょに、イエス様を礼拝するのだ、ということ、そのことを信じているがゆえに、祈り、讃美し、神様を誉め讃えるのです。
地上の生涯という点では、故人との別れを惜しむ寂しさはもちろんあるわけですが、そうした寂しさもいつかは過ぎ去って、目には見えないけれど、天で神様を礼拝し讃美している故人の魂、また、世々の聖徒たちとともに、神様を礼拝する。死の別れの寂しさを越えて、目には見えないいのちに移された方々を思い、地上のいのちとは別の姿、別の在りようで、今なお生きているその方々とともに、イエス様に仕える。ですからキリスト教の葬り、弔いには、肉体の死では終わらない、今、生きているという希望があたたかくともされているのです。
流された涙を天の神様が拭って下さり、いつの日か再会できるというその希望を信じて、やがて笑顔が戻りますように・・・ご家族、またおひとりおひとりに、慰めと平安、将来に約束された喜びが満ちますように。
2月に入って寒さが戻ったようで、昨日はここ大阪でも、一時的に粉雪も舞うような所がありました。皆さま、お変りなくお過ごしでしょうか・・・心身ともに、主よりの支えがありますように。
そんな中、昨日はある方の納骨式が執り行われました。教会から車で移動すること約30分。ご家族の方、教会からの方、併せて10名弱のメンバーで教会墓地に向かいました。ともに讃美し、短く聖書の箇所を開き、ともに祈り、神様の栄光を拝しつつ永遠のいのちの希望をともに分かちあいました。
永遠のいのちを信じるキリスト教においては、死者の弔い、埋葬の時においても、何か不思議な明るさ、暖かさが感じられ、じんわり心慰められる思いがします。ともに讃美もいたしますから、日本的な感覚からすると、慣れていないと少し場違いなくらい、明るいなと感じられる事があるかも知れません。
もちろん、キリスト教が、死者を大切にしない不謹慎なけしからん風習をもっている、というわけではありませんね。そうではなく、むしろ永遠に生きておられる天地万物の創造者なる神様のもとに、故人の魂が委ねられ、そこで平安と憩いのうちに置かれているのだ、ということ、この地上では、肉体という限られた「土の器」の中で、喜びや幸いだけではない、苦しみや悲しみも経験して来たわけだけれど、今やそういったものがすべて取り去られた神の御国に移されているのだ、ということ、そして、故人の魂とともに、地上に残る私たちも、いっしょに、イエス様を礼拝するのだ、ということ、そのことを信じているがゆえに、祈り、讃美し、神様を誉め讃えるのです。
地上の生涯という点では、故人との別れを惜しむ寂しさはもちろんあるわけですが、そうした寂しさもいつかは過ぎ去って、目には見えないけれど、天で神様を礼拝し讃美している故人の魂、また、世々の聖徒たちとともに、神様を礼拝する。死の別れの寂しさを越えて、目には見えないいのちに移された方々を思い、地上のいのちとは別の姿、別の在りようで、今なお生きているその方々とともに、イエス様に仕える。ですからキリスト教の葬り、弔いには、肉体の死では終わらない、今、生きているという希望があたたかくともされているのです。
流された涙を天の神様が拭って下さり、いつの日か再会できるというその希望を信じて、やがて笑顔が戻りますように・・・ご家族、またおひとりおひとりに、慰めと平安、将来に約束された喜びが満ちますように。
2015年2月7日土曜日
教会ホームペジの集会案内をちょっとだけ変更
皆さまご無沙汰しています・・・このところだいぶ放置ぎみでした。
前回の投稿が去年のクリスマス集会案内、ですから二ヶ月弱ぶりでの投稿です。
その間に新年を迎え、世間では何かと平和を祈る必要を切に覚えさせられる事件が展開していますが、皆さま、お変りなくお過ごしでしょうか。
主の平和を、切に、切に、お祈りいたします・・・。
さて、今回は、ほんのちょっとだけですが、教会HPの更新をしました。
といっても、集会案内を若干現状に合わせて修正しただけですが・・・。
修正しましたのは、教会学校の、従来「中高科」と呼んでいた部分。
実は、このところ貝塚聖書教会では、これは祝福でもあり、また課題でもあるのですが、中高生が卒業を迎え、巣立っていくにつれて、「中高科」クラスとしては単独で維持運営されて来ていない、という感じになっていました。
主に在る成長という点では間違いなく祝福であり、感謝でありますが、また同時に次世代の空洞化という課題でもあります。
おそらく同じ課題は日本の多くの教会で共有されているかな、と思います。
今では、この従来の「中高科」の時間帯に、大人の求道者、初心者、また讃美が好きな方が加わり、さながら「成人科」のような趣になっています。
しかしこれを「成人科」に看板替えしてしまうと今おられる学生さんたちに良くないかな、ということで、ここはひとつ、年齢別とか学年別という従来の発想から自由になって、「ジョイ」(=喜ぼう!)会という風になんとなく呼ばれていたので、そのままそれを名称にしました。
もうひとつ、単に中高生が少なくなったから、という理由だけではなくて、積極的な意味合いというか方針もあります。
というのは、中高生になれば、大人の礼拝にも十分参加できるはずだけれど、従来の「中高科」に出れば、なんとなく「礼拝に行った」「中高科に行ったんだから“大人の礼拝”はもういい」という勘違いが起こると残念だな、という事もあります。
教会学校を礼拝のひとつと位置づけるか、礼拝とは別物と考えるか、教会によって見解は様々だと思いますが、そういう議論としてというよりも、積極的に中高生を“大人の礼拝”(本当はそんなものはないんですけどね・・・)にお誘いしよう、という方向性を模索中です。
そんなこんなで、只今教会学校全体が過渡期なわけですが、これを祝福ととらえるか課題ととらえるか、そこもいろいろでしょうけれど、まずは「ジョイ」会になりました、という点、ご案内を修正いたしました。
今後ともよろしくお願いします・・・皆さまの祝福を祈りつつ!
前回の投稿が去年のクリスマス集会案内、ですから二ヶ月弱ぶりでの投稿です。
その間に新年を迎え、世間では何かと平和を祈る必要を切に覚えさせられる事件が展開していますが、皆さま、お変りなくお過ごしでしょうか。
主の平和を、切に、切に、お祈りいたします・・・。
さて、今回は、ほんのちょっとだけですが、教会HPの更新をしました。
といっても、集会案内を若干現状に合わせて修正しただけですが・・・。
修正しましたのは、教会学校の、従来「中高科」と呼んでいた部分。
実は、このところ貝塚聖書教会では、これは祝福でもあり、また課題でもあるのですが、中高生が卒業を迎え、巣立っていくにつれて、「中高科」クラスとしては単独で維持運営されて来ていない、という感じになっていました。
主に在る成長という点では間違いなく祝福であり、感謝でありますが、また同時に次世代の空洞化という課題でもあります。
おそらく同じ課題は日本の多くの教会で共有されているかな、と思います。
今では、この従来の「中高科」の時間帯に、大人の求道者、初心者、また讃美が好きな方が加わり、さながら「成人科」のような趣になっています。
しかしこれを「成人科」に看板替えしてしまうと今おられる学生さんたちに良くないかな、ということで、ここはひとつ、年齢別とか学年別という従来の発想から自由になって、「ジョイ」(=喜ぼう!)会という風になんとなく呼ばれていたので、そのままそれを名称にしました。
もうひとつ、単に中高生が少なくなったから、という理由だけではなくて、積極的な意味合いというか方針もあります。
というのは、中高生になれば、大人の礼拝にも十分参加できるはずだけれど、従来の「中高科」に出れば、なんとなく「礼拝に行った」「中高科に行ったんだから“大人の礼拝”はもういい」という勘違いが起こると残念だな、という事もあります。
教会学校を礼拝のひとつと位置づけるか、礼拝とは別物と考えるか、教会によって見解は様々だと思いますが、そういう議論としてというよりも、積極的に中高生を“大人の礼拝”(本当はそんなものはないんですけどね・・・)にお誘いしよう、という方向性を模索中です。
そんなこんなで、只今教会学校全体が過渡期なわけですが、これを祝福ととらえるか課題ととらえるか、そこもいろいろでしょうけれど、まずは「ジョイ」会になりました、という点、ご案内を修正いたしました。
今後ともよろしくお願いします・・・皆さまの祝福を祈りつつ!
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