2015年2月15日日曜日

祈りについて・・・

皆さんこんばんは。

貝塚聖書教会では、第三週を「歓迎礼拝」として、新し方々や求道中の方々を招きやすいようなメッセージをするよう心がけています(牧師の力量不足で必ずしもそうなってない事もあるのですが・・・)。いわゆる伝道礼拝に近いんでしょうね。

そんな第三週の礼拝後は、学習意欲熱心な信徒さんのリードで、信徒学級「聖書よろず講座」が開かれています。テーマはその時々。政治を扱ったり、神学を扱ったり、福祉とキリスト教だったり・・・。進め方もいろいろで、レジュメが配布されたり、ビデオをみたり、ディベートをしたり。時に盛り上がりすぎて熱くなることもありますが、わいわい楽しく学びが続けられています。

今日は、メインテーマからは外れるのですが、話しの流れの中で、キリスト教の祈りについて、質問というか、そこから分かち合いが広がりました。「祈ることは難しいか」ということから話題が始まったのですが、「熱心に」「全身全霊で」祈ると聞かれるのかな、という素朴な疑問から、だったようです。

日本語でいう「祈り」には、聖書で示される祈りの姿の他にもいろんな要素が混在しているように思います。まじないや、強く念じること、精神を集中させること・・・こういうことも、日本語的には「祈り」の一種かな、と感じる事があるのですが、聖書はそういうものと祈りとを区別しているように思いますね。

聖書においては、まず祈る相手がはっきりしています。そしてその方がどんな方かもはっきりしています。自分が、誰に、どんな方に、祈っているのか、そこがぼんやりしている人にとっては、確かに「祈ることは難しい」のかもしれないな、と思いました。

そこいくと、日本語の「祈り」は、「願をかける」にも通じるようなところがあって、誰に祈っているか、ということよりも、自分がどれだけ一生懸命、集中して取り組んでいるか、何かこう、自分の思いの方にフォーカスがあるような気がするんですね。

聖書の示す祈りはそういうものではなく、神という方の存在を認め、その方のご人格、ご性質を認め、その方に「語りかける」というのが本来の姿であるように思うのです。ですから、祈る相手がはっきりしていると、祈ることはそんなに難しいことではないし、むしろごく身近な、しかも日常的な営みとして実感されるのではないかな、と思います。

語りかける、話をする、それが聖書の示す祈りであるとするなら、必ずしも「願をかける」とか「精神を集中させる」といった事を必要とはしませんし、願うことだけが祈りというわけでもないので、聞かれたか聞かれなかったか(つまり、望みがかなったかかなわなかったか)という事だけでもないのです。感謝したり、日々の出来事を申し上げたり、そこで自分がどう感じたかを伝えたり・・・それは、必ずしも願いを請う、という事に限らないですよね。

もっというなら、全知全能の神様は、私たちが祈る前から、私たちが何を祈ろうとしているのかを、実はもうすでにご存知でもあられる、という事でもあります。そういう意味においては、すべての祈りは、聞かれていますし、しかも私たちが実際に祈る前から聞かれている、ともいえるかも知れません。

でも、たとえば私たちの願いがかなわなかったときに、私たちの感覚として、「聞かれなかった」と思うかも知れませんね。ただ、これは、聞かれなかったというより、聞かれてはいるんだけれども、より良い導きを示すために神様はあえてその願いを退けられた、という事の方が正確でしょう。

親子の関係で譬えてみましょう。子どもは親にいろんな願いをします。いい願いもあれば、良くない願いもあります。親は、子どもの言う事を、聞かなかったのではないけれども、その子のためを思えば、その願いをかなえるわけにはいかない、と判断する事もあるでしょう。子どもからすれば、それは聞いてもらえなかった、と実感されるかも知れません。私たちと神様の関係も、ちょうどそのような感じではないでしょうか。

私たちの願いを、聞かれないのではない、いや、すべての願いは聞かれている、けれども、もっと大きな目的のために、神様は敢えてその願いを退けなさる事がある。その代表的な出来事として、なんと神ご自身、イエス様ご自身が、願った祈りを叶えられなかったという経験をされた方である、という事は、「祈りが聞かれなかった」と感じ、悲しみ、落ち込む事がある私たちに、大きな気付きと慰めを与えるのではないでしょうか。

イエス様は、十字架の苦しみの直前、父なる神に願いました。出来ることなら、この杯(苦しみの象徴)を取り去って下さい・・・しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころがなりますように・・・ゲツセマネで祈られたこの祈りは、結局、イエス様の願ったようには叶えられず、イエス様は十字架の苦しみと死を経験なさいました。しかし、その苦しみと死の後、復活と、永遠のいのちの素晴らしさと、神の栄光のうちに天に挙げられるという父なる神様からの取り扱いを受けられたのです。

私たちも、絶えず祈りたいと思います。祈る相手をしっかりと思いながら。願い事や望みだけでなく、感謝や讃美や語りかけもしながら。「祈りが聞かれなかった」ように感じる時も、実は自分には気づかないもっと大切な、もっと素晴らしい事のために、神様は敢えて願いを退けておられるのかも知れない、と心に留めながら。日々、十字架の主の愛を覚えながら。たゆまず祈りましょう・・・

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