ハレルヤ、主の聖名が崇められますように。
2月に入って寒さが戻ったようで、昨日はここ大阪でも、一時的に粉雪も舞うような所がありました。皆さま、お変りなくお過ごしでしょうか・・・心身ともに、主よりの支えがありますように。
そんな中、昨日はある方の納骨式が執り行われました。教会から車で移動すること約30分。ご家族の方、教会からの方、併せて10名弱のメンバーで教会墓地に向かいました。ともに讃美し、短く聖書の箇所を開き、ともに祈り、神様の栄光を拝しつつ永遠のいのちの希望をともに分かちあいました。
永遠のいのちを信じるキリスト教においては、死者の弔い、埋葬の時においても、何か不思議な明るさ、暖かさが感じられ、じんわり心慰められる思いがします。ともに讃美もいたしますから、日本的な感覚からすると、慣れていないと少し場違いなくらい、明るいなと感じられる事があるかも知れません。
もちろん、キリスト教が、死者を大切にしない不謹慎なけしからん風習をもっている、というわけではありませんね。そうではなく、むしろ永遠に生きておられる天地万物の創造者なる神様のもとに、故人の魂が委ねられ、そこで平安と憩いのうちに置かれているのだ、ということ、この地上では、肉体という限られた「土の器」の中で、喜びや幸いだけではない、苦しみや悲しみも経験して来たわけだけれど、今やそういったものがすべて取り去られた神の御国に移されているのだ、ということ、そして、故人の魂とともに、地上に残る私たちも、いっしょに、イエス様を礼拝するのだ、ということ、そのことを信じているがゆえに、祈り、讃美し、神様を誉め讃えるのです。
地上の生涯という点では、故人との別れを惜しむ寂しさはもちろんあるわけですが、そうした寂しさもいつかは過ぎ去って、目には見えないけれど、天で神様を礼拝し讃美している故人の魂、また、世々の聖徒たちとともに、神様を礼拝する。死の別れの寂しさを越えて、目には見えないいのちに移された方々を思い、地上のいのちとは別の姿、別の在りようで、今なお生きているその方々とともに、イエス様に仕える。ですからキリスト教の葬り、弔いには、肉体の死では終わらない、今、生きているという希望があたたかくともされているのです。
流された涙を天の神様が拭って下さり、いつの日か再会できるというその希望を信じて、やがて笑顔が戻りますように・・・ご家族、またおひとりおひとりに、慰めと平安、将来に約束された喜びが満ちますように。
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